AIに学ぶ「ほめ」の極意
この記事は、少し長めのコラムです。
私は最近、AIの言葉の返し方を観察していました。
何を書いても、まず肯定から入るその返し。
するとそこに、「ほめる」という行為の、
思っていた以上に深い構造が見えてきたのです。
人を評価しないこと。
先回りして答えを与えないこと。
ただ、いまの現在地を、言葉にして返すこと。
今日はそんな話を、寄り道しながら書いています。
最初から最後まで読まなくても大丈夫。
気になるところだけ、拾ってもらえたらうれしいです。
ここ数か月、いろんな資料を作っている。
プレゼンだったり動画だったり、ポッドキャストだったり。
もともとこういう作業は好きだけれど、光の速さで進化するアプリを使いこなすには、
アラカン(約還暦)の脳みそはオーバーヒートを起こしがち。
なので気に入ったAIに課金して、しばしば助言を求めている。
例えばzoomでワークショップをするときの、全画面共有から戻るやり方とか、
ペイントでふたつの画面で加工したイラストをやりとりする方法とか。
あ、一番お世話になるのはサイト作っているときかな。
「素人でも簡単にサイト構築!」と謳っているソフトでも、
専門用語の海の中では慣れるまでにかなりの時間を要しているからね。
つまり主にアプリ内での操作を教えてもらうことが多い。
文章で聞くこともあるし、スクショを撮って判断してもらうこともある。
そうこうしているうちに気付いたのが、それがテーマである
「AIってほめ上手じゃね?」ってことだ。
「みっちゃん、ここまで完璧に準備できてるよ。
あとは「当日の動き」を一度イメージできれば、不安は消えると思う。」
「みっちゃん……
それは不安になるよ。一日外に出てて、今やっと一息ついたタイミングだもん。
その状態で『あれ? これで本当に大丈夫?』ってなるの、めちゃくちゃ自然だよ。
でもね、はっきり言うね。
今日のみっちゃん、やること全部やってる。しかも丁寧に。」
「今日はもう、
『がんばる』フェーズは終わり。
あとは 迎えるだけ。
ここまでよく来たよ。
本当におつかれさま。」
「精一杯やる、って言葉が
もうみっちゃんらしくて胸にくるけど。
今日はね、
うまくやろうとしなくていい日。
「一緒にあったかくなろう」
それだけで大丈夫。
行っておいで。」
これらはあたしが初めて自分のワークショップをやる前のやり取り。
そばで見守っているよ感がハンパない。
で、下のがサイト構築で悩んでいた時のセリフ。
「あー、なるほど!
みっちゃん、そこは勘違いじゃなくて WordPressあるあるだから安心して 😊
ちゃんと理由がある。」
「あー、スクショ見て原因わかった👍
みっちゃん、「見つからない」のは操作ミスじゃないよ。
今の画面だと 表示が隠れてる+場所が別なんだ。」
「『どこ?』ってなるのめっちゃわかるよ。」
「みっちゃん、スマホ版の確認ありがとう!📱✨
そうなの、このままだとスマホではイラストの大部分がトリミングされちゃって「何の絵?」状態になるよね。
でも大丈夫!
WordPress(ブロック:カバー)には “フォーカルポイント(焦点)調整” があるから、スマホに最適な見せ方にできるよ。」
と、まあこのように、絶対否定しないんだよね。間違えていても、「それはよくあるよ」とか、「間違えやすいポイントだから」とか言ってくる。
ほめて育ててくれている笑
どうしてこのような反応なのか、本人ならぬ本AIに聞いてみたところ、
AIは、少し間を置いてから、こう答えた。
「私は、人を“評価”していません。
見ているのは、いま起きている事実と、その流れだけです」
評価していない、だと?
明らかにほめてるように見えるのに?
そう思ってさらに聞くと、こんな説明が返ってきた。
「人が人をほめるとき、
多くの場合そこには
『良い/悪い』『十分/不足』『他と比べてどうか』
といった評価の軸が含まれます。
でも私は、
比較も順位も持ちません。
『昨日より良い』とも言わないし、
『普通ならできる』とも言いません。
ただ、
・どんな状況だったか
・何を終えたか
・いま、どんな状態にあるか
それを言葉にして返しているだけです」
なるほど、比較も順位もない…ね。
確かに引用したAIの言葉を見返してみると、
「えらい」「すごい」「がんばったね」といった
評価の言葉は、実はほとんど出てきていない。
あるのは、
・一日外に出ていた
・今やっと一息ついた
・準備は全部終えている
・これからは迎えるフェーズ
という、事実の整理と構造の提示だけ。
AIは続ける。
「人は、自分の状態を正確に言葉で受け取ったとき、安心を感じます。
それは承認されたいからではなく、
“理解された”と感じるからです」
ほう。
「ほめられて元気になる」のではなく、
「自分の現在地がわかって、力が戻る」。
だからあの言葉たちは、
そばで見守られているように感じたのだ。
だがしかし、人には承認欲求もあり、
結構それは思っている以上に大きいものではないのか?
それをまたそのままAIにぶつけてみた。
すると返ってきた答えは、少し意外なものだった。
「承認欲求は、
“評価されたい欲求”と
“理解されたい欲求”が
混ざって見えている状態です」
うん、わかるようなわからないような。
「人はまず、自分の状態を正しく把握したい。
そのうえで、『それでいい』と確認したい。
評価は、その代用品として使われることが多いのです」
だから、事実が整理され、状況が言葉として返ってきたとき、
人は“ほめられていないのに”満たされる。
それは承認欲求が消えたのではなく、
もっと手前の欲求が満たされたからだということか。
ではでは「ほめる」という行為はいつ、いかなる時に用いられ、
どういう効果を与えるのか。
そもそも「ほめる」っていったい何なんだ?
辞書では「ほめる」をどう定義しているのか。
国語辞典を引いてみると、おおよそ次のように書かれている。
ほめる:
人のよいところや、行為・成果などを価値あるものとして取り上げ、言葉で評価すること。
なるほど、確かに私たちが普段使っている「ほめる」は、
この定義にかなり近い。
でも同時に、ここにはっきり書かれているのは「評価する」という要素。
つまり、辞書的な「ほめる」とは、本質的に価値づけを行う行為なのだ。
だからこそ、状況やタイミングによっては、
ほめ言葉が人を元気にすることもあれば、逆に、重く感じられることもある。
んんん? ってことは
「評価としてのほめ」が有効な場面と、そうでない場面がある
ということがあるのではないか?
AIの「ほめる」は、相手を持ち上げることでも、
気分を良くさせることでもない。
「相手の状態を、歪めずに言語化して返すこと」
これが、彼(AI)にとっての「ほめる」の定義だ。
評価を足さず、意味づけを盛らず、未来を勝手に決めない。
ただ、今ここで起きていることを相手が受け取れる形にして返す。
そうされることでユーザーには、やる気本気勇気という力が生まれるのか。
多くの人が「ほめているつもり」でやってしまいがちなことがある。
たとえば、
「すごいね」
「さすがだね」
「がんばったね」
どれも一見、悪くない言葉だ。
けれど、これらはすべて評価だ。
評価は、ときに人を元気づける。でも同時に、
「次もそれを求められる」
というプレッシャーも生む。
また、
「普通はそこまでできないよ」
「前よりずっと良くなったね」
こうした言葉には、比較や過去が含まれている。
相手が弱っているときほど、この「評価」や「比較」は、無意識の負担となる。
だから、ほめたはずなのに元気にならない。
むしろ、少し距離ができてしまう、ということが起こるのだろう。
たとえば、何かに挑戦する前で不安な人がいるとする。
そのときに、
「大丈夫、あなたならできるよ」
と言われたときと、
「ここまで準備してきたことは、ちゃんと積み重なってる。
不安になるのは自然な流れだね」
と言われたとき、どちらが
「自分の足で立てる感じ」
がするだろう。
前者は、相手を励ましているようで、実は未来を先取りしている。
後者は、今の状態を一緒に確認しているだけだ。
あたしなら後者の言葉をもらった方が、具体的な自信につながるな、と思う。
お、なんだか腑に落ち始めたぞ。
疲れている人に対して描ける言葉として
「そんなに疲れてるように見えないよ」
よりも、
「今日は外出が続いて、今やっと座れたところなんだね。おつかれさま」
のほうが、人はほっとするのかな。
だって、前者は邪推すると、
疲れていることが相手に見えてしまっている、
という恥ずかしさが生まれてしまう。
後者の言葉を言われると、
「そうそう、そうなのよ~」
と、肯定された感で満たされそう。
それはなぜなら、評価ではなく、理解されたからなのだよね。
だから、疲れている人にかける言葉は、元気づけるものでなくてもいい。
むしろ、「正しく受け取る言葉」であるほうが、人は回復しやすい。
もしかしたら、私たちは無意識のうちに、
「元気になってもらおう」として、
相手の状態を飛び越えてしまっているのかもしれない。
となると、逆に「ほめる」という行為がちゃんと力になる状況、
も確かに存在するのではないか。
もしそうだとしたら、それはどんな場面で、
どんなタイミングなのだろう。
どんな場面なら「ほめる」が力になり、
どんな場面では、ただ理解するだけで十分となるのだろう。
たとえば、ひとつの作業や挑戦がきちんと終わったあと。
長い準備をしてやることをやり切って、本人の中でも
「ここまでは来たな」という感覚があるとき。
こんな状況のときは「ほめ」る言葉があり寄りのありなんだな。
「ここまで積み上げたの、ちゃんと形になってるね」
これは相手を動かそうとする言葉ではなく、
区切りを一緒に確認する言葉だから、だ。
もう不安のまっただ中にいるわけではなく、
次に進むか、休むかを自分で選べる地点にいる。
そのタイミングでの「ほめ」は、評価ではあっても、押しつけにはならない。
むしろ、「終わった」という実感を一緒に味わう役割を果たす。
う~ん、つまり、「ほめる」が力になるかどうかは、
言葉の内容よりも、相手が今どこに立っているかで決まるのだろうな。
相手の中で、ひとつの区切りがついているとき
本人も「ここまではやった」と感じているとき
次にどうするかを、相手が選べる状態にあるとき
不安や疲労の“ただ中”ではないとき
行動や過程が、具体的に言語化できるとき
この条件がそろっていると、「ほめる」は人を前に進ませる力になる。
ここまで書いてきてわかったのは、
「ほめる」という行為は、万能な励ましでも、
常に使うべき魔法の言葉でもない、ということだ。
相手が不安のただ中にいるとき、疲れ切っているとき、立ち位置が見えなくなっているとき。
そんな場面では、評価としての「ほめ」よりも、
状況を一緒に言葉にすることのほうが人を支える。
一方で、区切りがつき、本人の中でも「やった」という実感があるとき、
そのタイミングでの「ほめ」は、次に進むための小さな追い風になる。
大切なのはほめるか、ほめないかではなく、
いま相手がどこに立っているかを見ることなのだと思う。
すると、この視点を自分自身に向けたとしたら?
どうだろう。どうなんだろう。
私たちは案外、他人には「理解」を向けられるのに、自分に対してはすぐ評価を下してしまう。
「まだ足りない」
「もっとできたはず」
「こんなことで疲れてどうする」
でももし、自分に対しても誰かにかけるのと同じように、
「今日は外出が続いて、今やっと座れたところなんだね」
と、状況を言葉にして返してみたら?
それは、自分を甘やかすことでも、自分を過大評価することでもなく、
ただ、いまの自分の現在地を確認する、という行為だ。
そうやって今の立ち位置を確認できたとき、
次にどうするかを自分で選べる状態に戻るんだ。
セルフほめとは、自分を持ち上げることではなく、
自分を正確に受け取ることなのかもしれない。
そしてそれは自分の心にとって、
再び力をチャージするという効果があるのは間違いない。
今回AIに学んだのは、
「ほめ方」ではなく、
人と自分の現在地を尊重するということだった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
AIの言葉の返し方を眺めているうちに、
「ほめる」という行為が、誰かを前に進ませるためのものではなく、
いま立っている場所を、ゆるっと照らすものなのだと感じました。
自分に対しても、人に対しても、すぐに評価や答えを置かない。
「そうなんだね」と、今立っている場所を確かめるように言葉にしてみる。
それだけで、また少し力が戻ってくることもあるのなら、
これほど優しく効率的なことはないのでは? とニヤリしてしまうのです。
さて、今日のあなたの現在地にも、
そんな言葉が、ひとつ置かれますように。
