体を見ていたら、世界のほうがほどけてきた
瞑想って、何だろう。
そう聞かれると、
「無になること」とか「リラックスすること」とか、
いろんな答えがある。
でも最近、あたしの中では少し変わってきた。
瞑想ってたぶん、
「自分の体と会話すること」なんじゃないか、って。
呼吸を感じたり、
胸の詰まりに気づいたり、
お腹のゆるみを感じたり。
体はずっと、何かを発している。
ただ、普段はそれを聞いていないだけで。
瞑想は、
それを“聞こうとする時間”なのかもしれない。
…と思っていた。
でも、もう少し見ていくと、
ちょっと違うことに気づく。
体と「会話する」というよりも、
すでに返ってきているものに気づくだけ。
問いかけなくても、
体はずっと答えている。
むしろ、
「ちゃんと聞こう」とした瞬間に、
またコントロールが始まる。
だから瞑想って、
何かをすることじゃなくて、
ただ、起きているものをそのまま見ている状態。
そこから少しずつ、
不思議なことが起きてくる。
最初は体の内側を感じていたのに、
だんだん境界があいまいになってくる。
椅子に触れている感覚。
空気の温度。
遠くの音。
それらが、
同じように「起きているもの」として並び始める。
そのときふと、気づく。
「あれ、どこまでが自分なんだろう?」
体の内側も、外の空気も、
同じように感じられている。
境界が、ぼやける。
そしてさらに進むと、
もうひとつ不思議なことが起きる。
「じゃあ、これを見ている自分はどこにいるんだろう?」
頭の中?
目の奥?
そうやって探してみると、
全部“見られている側”に入ってくる。
見ている場所が、見つからない。
でも同時に、
確かに気づいてはいる。
このときの状態は、
こう言うしかない。
「観察者はいないけど、観察は起きている」
ただ、気づきがある。
ここまで来ると、
世界の見え方が少し変わる。
体の感覚も、音も、空気も、
全部が同じレイヤーで起きている。
そして気づく。
自分は「物理の中にいる」のではなくて、
最初からずっと、
“情報としての世界”を体験していたんだ、って。
だから、
「情報が先、現実が後」
そういう感覚が、すっと腑に落ちる。
ただ、もっと正確に言うなら、
現実は、最初から情報としてしか現れていない。
そういうことなのかもしれない。
そしてもうひとつ。
じゃあこの世界は、
いったい誰が作っているのか?
そう考えたとき、
「自分が作っている」でもなく、
「外側が作っている」でもなく、
そもそも“誰かが作っている”という構造ではない、
という見方もある。
情報が立ち上がるのと同時に、
「自分」という感覚も立ち上がっている。
世界と自分は、
別々に存在しているわけじゃなくて、
同時に現れている。
だから、
コントロールしているわけでもないし、
ただ流されているわけでもない。
その中に、
そのままいる。
瞑想って、
特別なことをするものじゃない。
何かを変えるものでもない。
ただ、
すでに起きているものに気づいていく中で、
見え方が少し変わっていく。
それだけなのかもしれない。
そしてたぶん、
その「少し」が、
思っている以上に大きい。
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