ゴールがわからないのは正常です
点じゃなくて、スライムでいい
昔、思ってたことがある。
もうなくなった両親のこと。
リタイアしてから、毎日どう過ごしてるんだろう。
つまらなくないのかな。
あたしも年を取ったら、ああやって漫然と暮らしていくのかな。
そんなこと、できるのかな。
当の本人たちは、趣味を楽しんでいた。
それなりに穏やかに、日々を過ごしていた。
でも、あたしにはわからなかった。
何を目標に生きているんだろう、って。
今考えれば、だいぶ失礼な話なんだけどね。
でもたぶん、あの頃からもう、
あたしの中ではひとつ確信していたんだと思う。
人生には、ゴールが必要だって。
ゴールがあるから、
そこに向かって、今どうすればいいかが見える。
逆に言えば、それがなければ——
家事をして、ゲームして、ビール飲んで、本を読んで。
それなりに楽しいけど、どこにも向かっていない毎日。
もしかしたら、あたしはそうなっていたかもしれない。
で、今のあたしはどうかというと。
「これがゴールです」って、
くっきりしたものは、正直ない。
あるのは、
「○○な自分に、オレは、なる!」
っていう、ちょっとジャンプっぽい叫びと、
なんとなく、こっちだよね、っていう方向。
そのために、ブログを書いたり、動画を作ったり、セミナーをやったりしている。
じゃあ、それってゴールがあるって言えるのか?
……たぶん、言える。
ただしそれは、
点じゃない。
スライムみたいに、
ゆやや〜ん、ゆよよ〜ん、としてるやつ。
形は決まってない。
でも、向いてる方向だけは、なんとなくある。
でね、
スライムでもいい、って言ったけど。
ないのは、やっぱり違う。
形はぼやけててもいい。
揺れててもいい。
でも、向いてる先がゼロだと——
人は、目の前の情報に引っ張られる。
やるべきこと、やった方がいいこと、
誰かの正しさ、世の中の流れ。
それに合わせているうちに、
気づいたら「それっぽい人生」になっていく。
でもそれって、
自分で選んでいるようで、
実は選ばされている状態。
だから、
はっきりしてなくていいから、
自分なりの“方向”は持っていた方がいい。
スライムでもいいから。
ゆよよ〜んでもいいから。
それがあるだけで、
世界の見え方が変わる。
これが普通なんだと思う。
ゴールって、最初から
「ここです」ってピン打ちされるものじゃない。
むしろ、
ぼやけてる。
揺れてる。
ときどき変形する。
明日には変わっている。
でも、それでいい。
というか、それが自然。
「ゴールがわからない」って悩んでる人、いると思う。
でもそれ、異常でもなんでもなくて、
むしろちゃんと考えてる証拠。
もし本当に何もなければ、
「わからない」なんて感覚すら出てこないから。
わからない、けど、なんか違う。
このままじゃない気がする。
その違和感こそが、
もうすでに方向を持っている。
だから無理に、
「これが私のゴールです!」って決めなくていい。
スライムでいい。
ゆよよ〜んでいい。
向きだけ、なんとなくあればいい。
そこからしか、始まらないから。
